mothertreeumeの日記

私がのびのび楽しむ日記

子育て中の今こそ

こんばんは。
何だか目が冴えています。
am3時。

子ども達が横で寝ています。
寝顔をみていると
「お母さんこそ【統合】したらいいな」と。
つくづく感じます。
「子育て中の今」こそ。
「すべて自分の中にある」というスタンスに
本当に救われている、と実感します。

子育て中のブログを読むと
「ワンオペ」「イライラ」「自分の時間がない」
という言葉が本当によくでてきて
私も少し前まで、それらを読みながら
「わかる〜」
「しんどいよねぇ」
と共振してきました。

そこでは、自分がしんどくなる理由を
「客観的」に
「共感をもって」表現されていて
それを読んでいると
「私は悪くない」
「私は精一杯やってる」って
誰かに「わかってもらいたい」気持ちや
誰かから「ちゃんと評価してもらいたい」気持ちが
一時的に浮かばれるような
満たされるような感覚になれたのです。

それも、時には必要かもしれない。
場合によっては助けになるのかもしれない。

でも、どこまでいっても
自分のしんどさを
自分以外の
「子育てのせい」や
「自分の時間がないせい」
にしてしまう出発点では
「夫にイライラ」して
「我が子にイライラ」して
「自己嫌悪に陥る」ことから
自由にはなれないのだと。
つくづく、つっくづく感じます。

だって、すべては自分が
発しているものだから。

繰り返し、繰り返し
波のように来ては去る
怒りと満たされなさ。
私の場合、
誰かのブログを読んで
一時的に浮かばれたところで
根底にはいつも「無力感」と「不安」が
渦巻いてきました。

そんな母のもとでも
子どもは
「やりたい!」というエネルギーの塊。

思う通りにならなかったり
お腹がすいたり
眠かったり
不安になったり
さびしくなったりしたら
そのまま不機嫌になり
ところかまわず
泣いたり怒りだす。

そこに
「母を困らせよう」
「周りをふりまわそう」
「迷惑をかけてやろう」という
意図など、全くなくて

だけど自分が
「時間がない」
「周りからどう見えるだろう」
「こんなにうるさかったら迷惑」
という心配と不安と
「周囲の目」に囚われる周波数を使っていたら

「とにかく静かにさせなくては」
「急がなくては」
「こんなんではこの子の将来が不安」
「私が駄目なんだ」
「イライラする」
「ストレスたまる」って
トントントンっと階段をのぼってしまえる。
本当に簡単に。

今朝だって
二歳の長女は朝から
「重ね着のシャツがもこもこする」
「でも脱ぐのはイヤだこれが着たい」
「でも気持悪い」って葛藤して
怒って大声で泣いていました。

「これはどう?」
「こうしたら?」という母のあらゆる提案は
火に油を注ぐだけの出発時間、10分前。

今までならイライラして
「もうええわ、泣いとき」とその場を離れたり
「お母さん付き合いきれへん」と
他のことをしたりしてきました。

イライラを娘のせいにして
「なんでこの子はこんなにこだわるの?」
「この性格育てにくい!」って
どっかで思ってきました。

でも、今はじーっと
泣いている娘のそばで目をつぶって
「統合」してみるのです。
まずは
「イライラ」を
「時間がない」を
「駄目な親と思われる」を
「育てにくい」を
「遅れたらあかん」を
ただ、
「目を醒すことをきめたから
これはもう、手放します。ありがとう」と
イメージして、それを手放し
光をうけとることに意識をシフトする。
何度も何度も。
そうすると
自分の中にしだいに静けさが戻ってきて
やがて
時間はせまっているけれど
娘は泣いているけれど
私の中はふんわりと穏やかになっていくのです。

不思議。本当に不思議。

穏やかさの中で見ていると
目の前で泣いているこの子は
「ただ困っているんだな」ということが
シンプルに伝わってきて
でも、今、泣きながら
「折り合い」をつけようとしてるな
あと少しだな、可愛いなぁと。
ゆっくりそばで「くつろぎながら待つ」
自分にシフトしていける。

そうすると私が何もしなくても
娘は自分のペースで泣きやみ
着換えられたりするので、また
すごいなぁと感動してしまいます。

「いつだって穏やかさの中に戻っていける」
「外側はもう関係ない」
このことは、本当に
言葉にならないくらい大きな「恩恵」だと。
つくづく感じます。

子育て中のお母さんこそ
「統合」いいですよ〜!って
つくづくおすすめしたい気持ちになった今日でした。

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